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20120617

源学2 宗教の誕生と死生観

【カテゴリ:日常】

人類の死生観について追っていきます。
広辞苑第六版には、死生観の項にこう書かれています。
【死生観】…死と生についての考え方。生き方・死に方についての考え方。
そもそも古代の人間にとって、死の原因とは何だったのでしょう?そこから話を進めていきます。以下に、古代に考えられる死の原因を挙げました。
1. 出生・・・一説では、紀元前の赤ん坊は三人に二人が出生時に命を落としていた。
2. 自然・・・天災(雷・洪水、地震、台風)による破壊、動物や害虫による被害。
3. 敵・・・他国からの侵略、内紛。
4. 病気・・・医療の技術不足、薬の知識不足。
5. 生活・・・衣食住の不安定がもたらす死。
若干かぶってくる点はありますが、古代の人たちにとって死の原因とは、以上のような種類がありました。
我々人類は、古代に限らず現代人もそうですが、当然、死に対して恐怖を抱いています。
死に対して恐怖を抱く。
この感情は生物にとって最も原始的な感情です。何故なら、生物というのは、まずもって「死を避ける」というところから進化・発展していきます。鳥が空を飛ぶようになったのは、決して空に獲物を追ってではなく、空に敵がいなかったからです。敵がいない、つまり安全なテリトリーを得るということ、「死なない」ために鳥は翼を持ちました。このように生物というのは、まず目前の「死」から逃がれるために進化していきます。
では、人類の場合、その進化をどのように過ごしてきたのでしょう。これは、古代人の死の原因を考えればよく分かります。
以下が、人類が死の原因に対して発展させた、現在進行形の対処法です。
1.出生
4.病気
という死の恐怖に対して、人類は医学を持ちました。
2.自然
による死への対処法として、現代では科学が最も力を持っています。昨今、よく取り沙汰される地震学とは、まさに「自然による死」への対処法として発展した科学でしょう。
3.敵
に対しては、政治や軍というものが発生しました。政治、軍によって、人々の安定した生活を得ようとしてきました。
5.生活
に対しては多くの対処法がありますが、商売や貨幣などはこれに当たるでしょう。
さて、こう考えてみると、実は現在の我々の生活というものは、死に対する恐怖と、その対処法から成立していると言っても過言ではありません。言うなれば、これは「死なないための社会」の構築です。そして、この「死なないための社会づくり」のことを我々は文明と呼びました。
四大文明、というものを社会科の教科書で習いましたが、こういった文明の起こりは「死なないための社会づくり」でありました。集団になること、水を確保すること、技術を持ち生活水準をあげていくということ。なるべく死なないための社会をみんなで作ってきた。これは今でも変わっていないのです。
さあ、では、これを「現代」ということに注目して考えていきましょう。
実は、現代というのは古代と違い、「死の原因」が異なります。
先ほど、上に挙げた古代の死の原因五つは、現代ではその多くがカヴァー出来るようになりましたが、これとは逆に、新たに加わった死の原因というものがあります。
ここが現代のおかしな点なのですが、それは「文明による死」なのです。
現代では、この文明による死が急増しています。
例を挙げれば、交通事故。また、過労死、自殺。日本での年間自殺者数は3万人を超えています。その背後にある社会ストレスや精神不安定は、現在社会のひずみが大きく関与しているでしょう。
戦争も依然として無くなりません。文明の末に生まれた核弾頭一発で、何万人の命が失われてしまう世の中です。
今騒ぎになっている原発だってそうでしょう。確かに電力の供給に大いに役立ちましたが、事故が起これば、やはり多くの命を犠牲にしてしまう。
こういったことがどうして、起こるのでしょうか。本来、死を避けるために発展していった文明が、どうして、このような形に変質してしまったのか。もちろん、文明の全てがそうではないのですが、現代社会の文明は、古代の文明とは異質なものになってしまった。
例えば、本来、命を救うことに発展していった医学が、堕胎手術を行い、現在の日本での年間堕胎手術数は二十四万件超。これは年間自殺者数の八倍に当たる数字です。どうして、このようなあべこべなことが起こっているのか?
それは、おそらく現代人の生活がほとんど安定圏に入ったことを示唆しているのでしょう。
つまり、現代人は古代人が抱えていた死の恐怖の多くを取り払うことに成功したのです。死が普段の生活から縁の遠いものになった。そこで、我々はどこか油断したのではないでしょうか?文明が「死を避ける」ためのものから「より豊かな暮らしを求める」ためのものになった。
その一つが車でしょう。
例えば、僕の友人のお母さんは、ある日交通事故を起こしてお年寄りをひいてしまったのですが、運悪くその方が亡くなられてしまった。そして、そのお母さんは、事故に責任を感じて、少し心を病んでしまったのでしょう。自ら命を絶ってしまった。結局、車によって、二人の命が失われてしまいました。一番辛いのは、残されたお互いの家族です。
これは車を運転する人にとって、いつか起こるかもしれない話です。けれど、誰も車を運転する時に、そんなことは考えない。考えているつもりでも、実は考えられていない。本気で考えたら、車に乗れなくなります。それでも乗る、というのが現代人の油断でしょう。よく考えれば、本当に車が必要な場面などそうないはずなのですが、やはり便利だから乗る。文明による死は、こういう油断から生まれていったのではないでしょうか?
現代文明というのは、文明本来の目的である「人が死なないためのもの」という根本を忘れ、「利便性・効率化」の追求に走っています。そしてここに、また新たな死亡原因を生んでいる。これは実に愚かなことだと思うのですが、それに気づいていない現代人も多い。具体的に言えば、「現代文明によって助かっている命」と「現代文明によって失われた命」を天秤にかけた時、どちらの方が多いのか。その答えに、今、世界中で同時多発的に起こっている「現代社会の閉塞感」の真実があるように思います。そりゃ、閉塞するはずです。自分で自分の首を絞めているのですから。文明による死は、文明では回避できないわけです。そうなると今度は、文明を捨てるという方向に向かわざるを得ない。だからこそ、日本でもスローライフというような発想が流行りました。カオス(混沌)という流行語も登場しました。
これは僕の個人的な意見ですが、文明を変質させたものはおそらく、経済であったろうと思うのです。分かりやすい例を挙げれば、「経済のための原発継続」と「人命のための原発廃止」で、今の日本社会はもめているわけです。これは「現代文明」の問題点を争っているわけです。僕は、どちらの論者でもありませんが、おそらく現代と古代の文明の境目は「経済」にヒントが隠されているような気がしています。歴史のどこかで、人命より経済を優先するきっかけとなる出来事があったのでしょう。或いは人の命を救うのだと大手を振って歩き始めた経済が、どこかで折れてしまった。そのような瞬間がきっと歴史の中にあるはずです。それが何であったのか、産業革命であったか、世界大戦であったか、分かりませんが、どこかで文明がねじ曲がってしまった瞬間があるでしょう。
先へ進みましょう。
とにもかくにも、そのように文明は発達してきた。話を戻しますが、古代人が「死」への対処法として文明を生んだ、というのは、鳥が翼をもったように、人間が知能で死に対処してきた、ということです。
医学や科学というのは、その文明の範疇にあり、今だからこそ、各々のジャンルとして(科学は科学、医学は医学という風に)確立してきたものであって、これが大昔に、いきなり医学や科学という形で誕生したわけではない。
医学や科学が、死に対する対処法として急に誕生したわけでなく、その間にクッションがあったわけです。それが宗教でした。
医学や科学が、宗教から発展していったといわれる由縁はここにあるわけです。当時の宗教というのは、現代の医学や科学の種を含んだ、ごった煮のようなものだったでしょう。
例えば、ガリレオ・ガリレイが何故今でも讃えられているかというと、それまで宗教的な概念を出なかった天動説を、初めて科学的に地動説として唱えたからです。彼は宗教的な裁判にかけられ、そこで科学を主張した。「それでも地球は動く」というのは、そう考えると、実に重大な言葉です。それは宗教と科学の境界線となる象徴的なセリフなわけです。このセリフを境に科学は宗教を抜け出して独り立ちできたのですが、それまで科学は科学でなく、宗教に縛られた「思想」に過ぎませんでした。
一旦、ここで話を切ります。
次回は、この科学以前の宗教に注目していきたいと思います。
「死」の原因を打開するため、古代人が打っていった手とは?科学以前の宗教とは?アニミズムから呪術志向のあたりを探り、人類の死生観についてもっと深く浮き彫りにしていきたいと思います。

猿の曲芸


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