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20100531

阿呆の思想

【カテゴリ:阿呆】

先日、“ひきあい”という単語が出てこずに、半日間、頭をひねった。
ひきあい、とは綱引きの引き合いではなく、例えという意味の引き合いで、例をあげれば「そんな昔の話を引き合いに出されても困るよ」云々。広辞苑でひきあいと調べると、「証拠・参考などの例に引くこと。引証。」とある。なんで、そんな事態に陥ったかというと、ある本を読んでいて、ふと、ひきあいという言葉を思い浮かべようという気持ちになり、思い出そうとしたのだが思い出せない。思いだせないと悔しいもので、あれぇ、あの言葉は何ていったかな、ええと、何あい、何あい、何あいだったかなと考えていたら、結局思い出すのに半日かかってしまったという情けない話である。
小学生の時、平仮名の「ひ」が思い出せなくなって困ったことがあった。あかさたな五十音を初めから一文字づつ頭の中にイメージするのだが、どうしても「ひ」だけ出てこない。ひ、ひ、ひ、ひはどうやって書くんだったかな、と思いながら、その時は教科書をパラパラとめくったらすぐにひを見つけたので、ああ、こう書くんだったかと納得したが、それでもまだ頭のどこかに「本当に、ひってこう書くんだったけかな」という思いがあったのを覚えている。きっと、思い出せないものを無理やりに何度も思い出そうとしたために、イメージと現実がごっちゃになり、正解を見たときに「これ、ホントに合ってんの?」ってなことに頭がなったのだろう。全く記憶なんていい加減なものだ。
しかし、この記憶のいい加減さをうまく捉えたゲームがある。先頭の人間が司会者からもらったお題を後方の人間に耳打ちして伝えていくという内容の。そう、伝言ゲーム。このゲーム、単純だが奥が深い。実際にやってみると、どうしてそうなったのか不可解なことがたくさん出てくる。「長介さんは畑に行った」が、どうして「長介さんは昼寝をしていた」になるのか。そして、これだけのことが正確に伝えられない僕たちって一体…と何やら漠とした不安に襲われたりする。ゲームならまだいい。笑っていられるのだが、現実世界で起こると、時に笑えないこととなる。そんなことはない、と思う方もいるかもしれない。だが考えてほしい。人間にとって言葉で作り上げたものは、すべて伝言ゲームだ。噂も教科書も文化も挨拶も。そこには常に伝言ゲームの不確かさがつきまとっている。
例えば「新しい」という言葉がある。これを発音するとき、現代人はアタラシイと発音する。しかし、これの正しい読みはアラタシイである。新たにする、をアラタと読むように、元々は新たしいであった。同様に山茶花はサザンカでなく、元はサンザカだ。雰囲気は現在、フンイキと読む人、フインキと読む人、五分五分くらいだろうか。こんなことは例を挙げればきりがなく、歴史の中で言葉はいいように嬲られて、都合良く伝言されてきた。これの恐ろしいのは、間違いが時を得ることで正解になることで、偽物が本物を打ち負かすところにある。伝言ゲームでは「負け」にしかならない事実が、たった80年しか生きられない人間、200年、300年と時がたつと、「負け」と宣言してくれる司会者が死んでしまうために、不正解が正解になるなんてことがザラに起こる。長介さんが生き返ったりする。
そして、もっと恐ろしいのは、単語ですらこの事態だということである。文章になった時、その文章で綴られてきたこれまでの歴史がどれだけ正しいのか、口伝されてきた教えがどれだけ正しいのか、はっきり言って、本人が書いた原本がなければ確かめようがないし、その原本の出自が確かかどうかなんてことは、これまた同様にはっきりとは分からないことなのだ。改ざんされていることだってあるかもしれない。
「我思う、故に我あり」と言ったのはデカルトだが、やはりそうなんだなと思うのは、自分の周りを見つめた時、社会や、また社会に帰属しようとする自分自身が作り上げた常識というものが、まるで砂の城だからである。とにかく美しく完璧な建物のようであっても、風が吹けばもろくも崩れ去る、幻のようなものではないか。真実は何か。というのは、普段から僕の中にずっとあって消えない問いなのだけど、唯一の証明方法が「我思う」ってだけでは、やはりどこか空しい。城でなくとも、せめて確かな重みのある、叩けば音がして割れるようなレンガを一つ、この短い人生で作り上げられたら、なんて思っている。その方法が愛に隠されているような気がして、真剣に愛について考えている。
現史時代


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