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20110109

肌色の行方

【カテゴリ:考察】

肌色が無くなったらしい。
というのは、色鉛筆の話。僕が小学生の頃には色鉛筆の中の一つの色として、肌色という色があった。
今は、肌色のことを薄橙(うすだいだい)色と呼ぶらしい。
確かに考えてみれば、肌色というのは過激なネーミングだ。
差別や偏見に対する意識が高まっている昨今、また国際化が叫ばれて久しい今日この頃、至極当然な成り行きに思える。
しかしなあ、肌色が無くなってしまう、という、ただそのことだけが何か寂しくもある。
だって、例え肌色という名称が無くなっても、自分は死ぬまで、街で肌色を見かけたら「肌色」と言ってしまいそうだもの。でも、ダメだね。ちゃんと直していかねばね。肌色は確かに時代錯誤な名称だと自分も思う。

「例えば、赤色はどうして赤いのか。誰が名付けたんだろう、あやふやじゃないか」
と言ったのは、ザ・クロマニヨンズの真島昌利氏だ。
色って、どうしてあれだけ種類があって、そしてその一つ一つの名前を誰が決めたのだろう。
我々は、黒、と言えば、みな一斉に同じ色を思い浮かべることができる。青、と言えば青色を、黄と言えば黄色を思い浮かべられる。しかし、それがなぜ青いのか、何故黄色いのかを知らない。
りんごが何故、赤いのか。それは、日光の加減だとか、そういう成分が入っているからだとか、それこそ色々な理由を並べたてることは出来るけど、そのどれ一つとして、赤色の証明にはならないだろう。
例えば、色盲と呼ばれる人は赤色が赤色には見えないわけだけど、もしかしたら、そちらの方が正しいりんごの色かもしれないのだ。
これは昨今の医学界の流れだそうだが、我々はただ多数派の人間の色覚を正常としているだけで、実は色盲と言われる少数派の人間の色覚の方が正常なのかもしれない、そういう可能性もあるのだという。だから色盲という言葉にも語弊があり、今では少数派色覚という名称に変わりつつあるそうだ。
けれど、それってのは拡げて考えてみれば、つまり、人間の目が赤色を赤色に見せているだけで、本当は地球上に赤色は存在していないかもしれない、そういう可能性だってあるということだ。
ここまでいくと哲学的で答えのない話(それは屁理屈みたいな話)になるが、そうやってほとんどの色はただ単に、現段階の科学が保証してくれているだけに過ぎず、したがって、それは証明ではないのである。
我々は本当に赤色を見ているのだろうか?
お札が、国の保証があるからお金の価値があるだけで、保証がなかったらただの紙切れのように、色も実は同じこと。現代科学の保証があるから、そうだと思っているだけで、この先科学が発展して新たな発見があれば、それまでの常識は覆る。
「赤色は、人間の目の先天性色覚異常による錯覚でした。あれは実は○○色で、赤色は科学的に存在しません」ということにでもなれば、「そうだったのか・・」と黙って頷かざるを得ないのだ。
きっと、真島氏もそんなことを言っているのだろう。実にあやふやなことだ。

まあ、そんなわけで肌の色は無くなっていないのに、肌色が無くなってしまったわけだが、おかしなことにその逆、なくなってしまったのに、ある色がある。
というと、なんのこっちゃ、よく話が分からんがな小僧、ってなことを言う人もあるかもしらんが、まあちょっと聞いてほしい。
というのは、茶色である。
皆さん、茶色と言ったら、どんな色を思い浮かべるだろうか。
きっと、土色だったり、木の色を思い浮かべると思うんだけど、では、茶色って何故茶色というのだろうか。
よく考えてみると、これはおかしい。
というのも、茶色というのは緑色じゃなきゃおかしいではないか。お茶の色は緑なのだから。何故、茶色があの色なんだね。
しかし、茶色には実はこんな歴史があるのだ。
というのも、昔のお茶は、茶色という名前の通り、茶色かったのである。それこそ今でいうほうじ茶やウーロン茶のように。
日本に茶が持ち込まれたのは12世紀、臨済宗の開祖、栄西によってだと言われているが、当時のお茶は中国から持ち込んだもので、今とは精製の方法が違っていた。後に日本茶と呼ばれる緑茶が登場するのは江戸時代のことである。
江戸期、日本の町民文化が盛んだった頃、お茶ももっと鮮やかな色が出せないもんかと、とある卸売問屋の主人が思い、開発したのが緑茶だという。
緑茶の鮮やかな緑色はすぐに江戸で流行り、瞬く間に全国に浸透。それまで茶色かったお茶が、一気に緑色になってしまった。
つまり、茶色というのは、当時のお茶の色のことを指しているのであって、今の茶色ではない。
また、先に挙げたほうじ茶も20世紀に入ってから確立したものであり、本来の茶とは別物である。
と、このように、今は見かけないお茶の色が、茶色という名称だけ名残として残っているのだ。

肌色はあるのに、肌色が無くなり、茶色は無いのに、茶色がある。

なんだか禅問答のようだが、そうなる。
で、まあ、そうやって考えていくと、やっぱり色なんてあやふやじゃないか、と言わざるを得ない。人間は、その時の状況状況で、色を作ったり、無くしたりしている。
ちなみに肌色の新名称、薄橙の橙とは柑橘類のオレンジのことであり、だから橙とオレンジは同じ色なのだが、もし、地球上からオレンジが無くなってしまったら、我々はあの色を何と名付けるのだろう?
考えてみれば、オレンジが無かったら、我々はオレンジ色を認識できるのだろうか?
オレンジという指標があるからこそ、オレンジ色が存在しているのであって、オレンジがなかったら、あの色はただの黄色と赤と黒を混ぜた色である。
オレンジのない国に行って、王様にオレンジ色を説明する時、色の見本があればいいが、なかったら言葉で説明できるか。自分には自信がない。

「オレンジとはどのような色じゃ。説明いたせ」
「王様。オレンジとは、黄色を若干赤みがけた色でございます」
「それは、このような色か?」
「王様、それはカレーでございます。そうですな、敢えて申し上げれば夕焼けのような色でございましょう」
「ほう。夕焼け色と申すのか」
「左様でございます。これ、絵師、王様に夕焼けの絵を」
「ははあ」
「お待たせいたしました、こちらが夕焼けの絵でございます」
「なるほど。これがオレンジ色と申すのか」
「王様。それはオレンジ色ではありません」
「なに?さきほど、夕焼け色と申したではないか」
「王様。夕焼けにも色々あります。どうやらこの絵師は酒が好きなようで・・」
「??それがどうした?」
「その夕焼けはウイスキー色をしております」

なんつって。
う~ん、考えてみれば、これはやはり哲学的。色って、一人一人の共通認識の上に成り立っているんだね。
そこまで考えて、「もしや・・」と思い、調べてみたのだけど、赤とレッドも実は違う色らしい。我々は学校教育で、赤=レッドと教わったから、そう思い込んでいるが、考えてみれば日本とアメリカ(もしくはヨーロッパ)という別々の風土の中で、赤に対する全く同じ共通認識など生まれようはずもないのだ。
実際のレッドは、赤よりも若干淡い色をしている。ブルーと青も正確には違うようだ。
やはり、あやふや。すげえぜ、真島氏。

ところで今後、自分の肌の色を表現する時、「私の肌の色は薄橙色です」と言わなければならないのだろうか。
僕の肌の色は本当にオレンジを薄めた色なのだろうか?そんなことないと思うんだけどなあ。黄色人種というけど、黄色でもないし。
オレンジ色がオレンジでしか表現できないように、肌色って、やっぱり肌色という名称でしか表現できないんじゃないの?と思うんだけど、そこらへんどうなんだろうか。

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